司法改革 浜辺
陽一郎 著
一人前に高収入を得ていながら、それに見合う仕事を全くしない人が多い。
色々な業界に巣くう悪党の類。惰性、堕落による、不備、落ち度を何とも思わないような無責任な人達。結託の輪にいる悪人連合をいかにするか。
世の中が、悪しき習慣で縛られ、けじめをつけないのが当たり前になっている風潮が問題である。しっかりした裁判制度を構築して、巨悪の結託者達を裁かなければならない。
可視化して透明性の高い土俵にして、誰にでも判りやすい口頭弁論で健全な市民感覚で決着をつけるべきである。
何が原因で調査ミスが起きたのか明らかにすべきで、正すべき処を正す必要がある。
今回、被害者になって、日本の制度がこんなに問題があると知った不合理な制度を改めるべきで、裁判の手続自体にメスを入れる必要がある。
行政の怠慢や不埒な悪行三昧をやっている悪人の温床にメスを入れ、裁判でキチンと落し前をつけて貰えるようにすべきである。
裁判の手続が公正中立、合理的なものにすべきである。本来の手続を用意するのが自然に行き着く、司法改革の目的である。
国民の皆が納得出来る、充分な手続を作る必要がある。
強制力の無い、変な手続ばかり増やしても「悪人連合」の対策にはならない。
悪質な企業は、今までのように民亊裁判の弁済手続を悪用して不払に持って行くことが出来ない。国民の常識の目による監視の下で正されていくだろう。
陪審制が民亊の領域にも実現すれば、一般市民の感覚が法律制度の運営に反映されることになる。そうすれば、裁判官も大いに刺激を受ける機会となる。
陪審制により、裁判官と一般人との風通しが良くなる。一般人が民亊裁判においても、判断権者として訴訟手続きに参加して、その結論が法律関係業界の人々の収入にも関係してくるということになれば、司法を運営する法律専門家、うかうかしてはいられなくなる。
それこそベールに包まれた中で「仕事のクオリティー」に関係なしに権威が保たれるというわけにはいかなくなる。司法の権威を保つには、それに見合った、しっかりとした仕事をせざるを得ないということになる。
残念ながら、多くの日本の裁判は、ほとんど誰も見ていない中で弁護士と裁判官の手で済まされます。
法廷は公開されているなどと言っても、形式的な公開であって、(あれで裁判の透明性が確保されていて判りやすい)などと思っている人は、まず居ない。
確かに、司法エリートにとっては都合の良いシステムである。丁度、国民の目の届かないところで仕事をしている官僚に似ている。重大な事件でも、国民に充分に説明はされない。これは一部の専門家だけに任せきりにしてきた結果。
法制度の全体的なシステムや手続が、事業者寄りになっているのが問題だ。
法律の運用を監視して、専門家が勝手なことをしないように、国民がチェックできるように改革すべきである。
陪審制は、裁判手続のあり方を抜本的に良くするし、日本人の意識を変革するための特効薬になる。手続に鈍感なままに馴らされてきた日本人の「お上頼み」意識が、裁判官への絶対的な信頼感だ。
「法廷で証人の話も聞かないで判決するのはおかしい、取消して貰いたい」という主張は、物事の筋である。裁判官も書記官も転勤、移動して居なくなる、裁判官の官僚統制システムが働いている。
「法曹一元」という言葉がある。法曹とは裁判官、弁護士、検察官など、法律家のことで、弁護士や検察官の仕事の経験を踏んでから、裁判官になる制度。
被告・原告、当事者達の証拠集めの苦労を経験した人が裁判官になるべきだ。
トンデモ判決を防ぐ為には民事の陳述を口頭にして、法廷実況中継すべきだ。
裁判員制度より裁判官や書記官の質の改善が先。福岡地裁はトンデモ裁判官とトンデモ書記官の収容所だ。裁判員制度は本当は民事裁判でやるべきだ。
裁判官に常識を持たせるには、数年の社会経験を司法試験の前提にすべき。
冤罪を防ぐには判検交流や損保と弁護士会、検察との癒着をやめることだ。
善良な一般市民を巻き込み、不必要な迷惑をかけるべきでない。(司法の場に市民感覚を)という裁判員制度導入の趣旨ならば、生活に直結する民亊にこそ必要であろう。
刑事限定は裁判の誤判の責任を国民にかぶせる悪巧みである。
裁判員制度は裁判官の責任回避の為に悪用されている。この制度の裏の目的は「(国民が裁判した)という大儀明文にできる」と言うことで、冤罪による逆恨み等の矛先をかわし国民に向けさせ市民を盾にして逃げる卑怯千万な制度。だ
国民の義務として裁判員参加決めることは、思想信条の自由や幸福追求の権利を蹂躙するもので憲法違反だ。
国民に理由を問わず裁判員参加を拒否する権利と、被告人に裁判員裁判を拒否する権利を与えるなら違憲性はないが…。
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